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       6/1(土)シンポ&デモ!「誰のためのTICAD(アフリカ開発会議)か?
         -グローバリゼーションのなかで搾取と排除に抵抗するアフリカとアジアの人々-」
           http://ticakov.hatenablog.com/entry/2013/05/10/183546

           ゲスト  チャイナ・ングバネさん (南アフリカ共和国:クワズールー・ナタール大学市民社会センター)

           シンポジスト 稲葉奈々子さん( NO-VOX 「持たざる者」の国際連帯行動 )
                    近藤昇さん( 寿日雇労働者組合 )
                    小倉利丸さん( 横浜でTICADを考える会 )
                 
           シンポジウム宣言:http://ticakov.hatenablog.com/entry/2013/06/06/231359

報告 第2回学習会「北アフリカ革命 もうひとつの世界への模索」

横浜でTICADを考える会 第2回学習会
「北アフリカ革命 もうひとつの世界への模索 」(その概要報告)
http://ticakov.hatenablog.com/entry/2013/03/06/112551

 当会2回目の学習会では、長く西サハラ問題にかかわって来られた高林敏行さん、2006年から2009年までチュニジアに留学されていた山中達也さん、そしてWSFチュニジアに参加中の小倉利丸さん(中継で)の3人に「北アフリカ革命」について語って頂きました。以下は3人のお話の概要です。
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 <高林さんのお話―「北アフリカ革命」と日本・アフリカ関係> 
(下線は報告者による)
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 「アラブの春」と呼ばれるものは、アフリカとアラブの結節点としての北アフリカで起きた革命として捉える。1990年代から始まったサハラ以南のアフリカの「民主化」の波が実質アラブへ届き、もうすでに反動(バーレーンリビア、イエメン、シリアに見られるアラブ君主制諸国によるこの民衆革命の「管理」と外国の介入による)が始まっているので、これがどこまでアラブの中で広がっていくかは疑問だが、今後アフリカに残る独裁体制への圧力として還流する可能性をも含むものとして。そんな時日本の「国策」としての独裁体制・違法占領への荷担や対中国戦略を念頭に置いてのアフリカとのパートナーシップを謳うTICADによる関与は、平和と民主主義に資するものと言えるのか。
 実質上一党独裁や超越的最高権力者の専制が続いてきた国々からなる北アフリカでの「革命」は、西アジアのアラブ諸国とちがって、アフリカの「選挙民主主義を支持する政治文化の広がり」の影響を受けて「暴力による政権維持を許さない圧力」として高まった結果だと言える。チョムスキーによれば、「アラブの春」の先駆的役割を果たしたのは、西サハラの闘いだ。他方、北アフリカ革命の特徴は、長年の慈善・福祉活動による組織力をもつイスラーム勢力の選挙での躍進イスラーム主義勢力を主要な政治アクターとして認める民意の現れ)である。イスラーム勢力の台頭防止を名目にした独裁支持、イスラーム主義の聖戦主義による武装活動への矮小化によるイスラーム勢力の過度な敵視・排除、旧体制のエリートとイスラーム主義政党との確執などがこれを阻んできていた。
 民衆革命への反動とは、モロッコの西サハラ占領を認めるアラブ連盟の画策、湾岸協力評議会(GCC)合同軍のバーレーンへの介入、イタリア、イギリス、米国などNATO諸国のリビアへの介入である。西サハラサハラ・アラブ民主共和国を国家と認め、どちらの味方もしなかったアフリカ連合(AU)の調停工作を出し抜いて行われたのが国連、アラブ連盟イスラーム会議機構、EU,NATOの連携による軍事解決だった。さらにはリビア紛争のとばっちりを受けたマリは、フランス軍、アフリカ諸国軍による介入、アレバ社の屋台骨(日本原燃も関与)であるウラン地帯を持つニジェールが隣国であるためのフランスによる関与などでさらに情勢を悪化させられている。
 1993年から始まったTICADプロセスから排除され続けたAU加盟国の西サハラの視点(2012年の5月のTICAD閣僚会合がなぜ、AU非加盟国のモロッコなのか、モロッコの占領支配、アフリカにおけるフランスの反動的影響力、民衆革命の「管理」を容認する公式メッセージに等しい、アフリカの民主化を支持するなら、チュニジアで開催するべき)からも、ソマリア「海賊問題」とジブチの視点(日本の法制度で「海賊行為」を逮捕・処罰することを可能にしてしまい、ジブチ政府の「地位協定」で、在日米軍のそれを上回る治外法権を認めさせ、自衛隊初の海外基地の開設はジブチの独裁体制をささえることにもなる)からも、日本政府はアフリカの「民主化」の支持者ではない
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<小倉さんのWSFチュニス参加報告>(スカイプ中継)
  参加者は、2万人とも4万人とも7万人ともいわれているが、WSFがチュニジアで開催されたことは地元では大きな関心事としてアラビア語新聞では一面に、仏語新聞でも大きく報じられた。
 大きな注目をあつめたのはパレスチナ問題。植民地主義の問題を取り上げた会議も多く、パレスチナ西サハラ問題を討論する大きなテントもあった。水、債務、貧困のテーマにくらべると、軍事・安全保障問題が余り取り上げられておらず、マリからの参加者からもフランスの介入の話は聞けなかった。参加者の立場はホメイニ信奉者からUGTT(チュニジア労働総同盟)や伝統的左派までと幅広い。このイデオロギー的幅の広さとWSFがめざす「もう一つの世界」がちっとも提示されないことへの「いらだち」のようなものがWSFの問題としてずっと引きずられている。
 自分以外の日本からの参加者の感想(賛否両論)もビデオで紹介してみたい。
・女性の力強さ、ヨーロッパもアフリカも地中海の多様性として自然に受け入れられている世界を確認できた。
・みんなでこの革命をやったという自信があちこちで感じられた。
・NoVoxで参加したが、これまでフォーラム内外を占拠して貧困に取り組む地元のグループを巻き込んでやってきたのに、地元の参加が少なく、チュニジアでやった意味があったのか疑問だ。フランスでやっても同じ人が集まったのでは?
・北アフリカで開かれたことの意義は大きいと感じた。これから債務問題に本気で取り組んで行かなくてはならないことが確認できた。
・若者中心にやっていることに期待をかけたいと思った。
 自分も街頭で若者何人かに訊いてみると、フェイスブックでしか参加しなかったというものからデモには毎回参加して怪我もしたという者もいたし、憲法問題についてパンフを配っていて、政党2つに入ってどちらが良いか考えているところだというものもいて、西側の価値観への期待は留保されながら、政治への関心が広がっていることを感じた。
 大学のキャンパスを全て使ってWSFがやれること自体、日本では考えられないことだ。
ただ、WSFがキャンパス内に留まっていて、町の中へ持ち出されていなかったのは残念。ここが課題と言える。日本に関する関心は低く、持ち込んだTICADビラも受け取ってはくれたが「なにこれ?」という反応だった。チュニジアにはマック、ケンタッキー、スターバックスがなく、地元のファーストフードが安くておいしかったことがうれしかった。
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山中達也さんのお話―独裁と新自由主義からもう一つの世界へ:チュニジア民衆の闘い>
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  中東・北アフリカ諸国の中でも政情が安定していて着実な経済成長を遂げている(一人当たりGDPが中東・北アフリカ諸国の平均やサハラ以南の平均よりかなり高い)国ということでIMF・世銀からも賞賛されていたチュニジアでなぜ民衆が立ち上がったのか。
直接的な発端は、商売道具を撤去された青年露天商による抗議の焼身自殺だが、背景には、独裁政権の腐敗、強権的な治安維持機構、肥大化した官僚組織、若年人口の増大と深刻な失業、階層間格差、経済構造の脆弱性といった中東・北アフリカに特徴的なものがある。

ブルギバの開発政策と世界経済
  1948年イスラエル建国、アラブ5カ国対イスラエルの中東戦争でアラブ敗北、パレスチナがイスラエル占領下に。1955年、「アジア・アフリカ会議」「脱植民地化」の動きを時代背景として、チュニジアは1956年、フランスから独立、民族解放運動の英雄のハビブ・ブルギバが初代大統領として国家の「近代化」社会の「世俗化」を目標に強権的な指導力発揮。1960年初頭のナセルのアラブ民族主義と社会主義的開発政策の影響を受けて1969年まで、巨大な官僚群を構築し国家主導の開発政策を実施。これを西側諸国・国際金融機関から警戒され、経済援助停止、生産活動減退、大旱魃、失業率悪化、対外累積債務多額化から財政破綻寸前に。1970年自由主義経済へ転換、援助の再開で経済立て直しがなされる。
1970年前後、チュニジアも外からの借款・産業再配置に組み込まれていった。ヨーロッパへの一次産品輸出から繊維・食品加工といった軽工業にシフトするも、世界規模の景気停滞で工業製品輸出減退・開発のための輸入の増加で貿易収支悪化。1974年~75年生活必需品高騰→農村部からの人々の流入→貧民屈の形成・若年層の失業深刻化はブルギバ政権への不満・治安悪化を招く。1978年チュニジア労働総同盟主導のゼネスト→発展した民衆暴動の弾圧で200に死者を出す。イラン・イスラム革命勃発した1979年、国内のMTI(イスラム志向運動)と学生らの反政府抗議運動が弾圧される。1980年以降EUの景気後退が響き財政悪化→財政健全化のための社会保障費削減→南部の食糧暴動が全国暴動へ発展→政府による徹底した弾圧(この指揮者が後の大統領ベン・アリ)。1986年対外債務返済不履行宣言・IMFの「構造調整策」受け入れで、ブルギバの権威失墜→混乱に乗じて1987年ベン・アリが、無血クーデタで大統領に。

ベン・アリ政権下のチュニジア経済
1989年にワシントン・コンセンサスが成立し、ベン・アリ政権もIMF勧告従い緊縮財政・対外開放政策を推進、1991年勃発のアルジェリア内戦を受けてイスラム勢力警戒、反政府勢力抑圧・情報統制を実施。1995年からヨーロッパの「作業場」成長モデル推進、1987年に始まった国営企業の民営化を2010年までで219社で推進、2005年以降外国直接投資も急増させた結果、ヨーロッパ市場向けの従属的な軽工業に資本と労働力が吸収され、国内用基礎的生産物が生み出せなくなった。国家運営には国外からの資金援助に頼らざるを得ず、対外累積債務は2011年には223億ドルとなる。2004年頃から、ベン・アリ夫人家族による国富の私物化が始まり、一方工業品輸出と言えども、資本財・部品を海外から輸入・組み立て修理の上の輸出なので、担うのは未熟練労働工程なため大卒者の失業率が上がり、民衆の憤りは募った。
2008年の世界金融危機→湾岸諸国による投資滞りによる土地開発計画の中止、2009年からの米軍のイラクからの撤退によるパワーバランスの崩れなども民衆蜂起への道を準備した。

アラブの春」の現状と今後への展望
  民衆蜂起による独裁政権の崩壊(「アラブの春」)後の民主選挙で圧勝したイスラム主義政党の支持者は、「保守」と「世俗的リベラル」に大別され、イスラム主義者の中でも、セラフィストとジハーディストが台頭。アンナハダ政権は、歳出削減・規制緩和を求めるIMF貸し付けを断ったエジプトと違って、GCC等からの多額の資金援助をうけとっている。EUの成長率に影響されて、GDPは下がり、高失業率が続き、インフレ悪化が懸念される。アンナハダの人気は低下しているが、世俗派政党は分裂、独裁時代の与党系が人気を得てきている。アンナハダ批判をしてきたベライードの殺害事件も情勢の混迷を深めている。リビア、アルジェリア、マリなどの砂漠地帯を中心に台頭してきているイスラム武装勢力が、フランスの軍事介入で分散化し、地域の不安定化を加速させている。
 民衆蜂起の本質的要因は、独立以来の独裁政権の経済政策(開発独裁)と大差ない「海外からの投資・借款を梃子にした新自由主義的開発政策」にある。中道・リベラルもイスラム原理主義もめざせていない第三の道こそが議論されるときである。その意味でチュニジアでWSFが開催された意義は大きい。

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イスラーム主義を初めとした宗教間・内の多様性の許容と政治的民主主義を前提として、各地域の自律的「経済発展」と「社会文化的/人権的解放」をめざして協力・連帯することが第3の道、もう一つの世界かと再確認できたものの、その具体的道筋の提示の険しさを思わずにはいられない。(報告者のつぶやき)